毎日の暮らしの中で、思うようにいかなくてイライラしたり、認めてもらえない悔しさに歯がゆい思いをしたことはありませんか。
無意識に浮かんでくる感情に振りまわされないで過ごせたら、どれほど心おだやかでいられることでしょう。
そんなときに、「どんな悩みでも解決できる方法がある」と言われたら、迷わずこの本を手に取ってしまいますよね。
ブッダが、人生をラクに生きていく考え方や、とらえ方を教えてくれます。
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第1章)反応する前に「まず、理解する」
さっそく結論からお話ししますね。すべての悩みを、根本的に解決できる方法があります。
それは、ムダな反応をしないことです。
タイトルそのままや~ん!
悩みというのは、心の反応から始まっているんだって。心のムダな反応を、やめることでいっさいの悩み、苦しみから抜けだせるわけ。
たとえば、ムダな反応とは、動揺したり、落ち込んだり、腹が立ったり、プレッシャーを感じたり、人前に出て緊張したり、先のことを不安に感じたりと、これらの感情に振りまわされることなく過ごせれば心が軽くなりしあわせになれるわけですよ。
そんなわけでまずは、わたしたちが抱えている「悩み」を「理解」することから始めていきましょう。
ブッダの考え方の特色は、「人生には悩み・問題がつきものなのだ」という現実を、最初に受け入れてしまうところにあります。
私たちが日々感じている満たされなさ、生きづらさ、憂鬱といった思いを「ある」と認めてしまうことです。
悩みをなくすことは不可能なんだから、そんな感情がわいてくるよね~と。
わいてきた感情ごと認めていいのです。
それは決して「現実を受け入れる」のではなく、「ある」ものを「ある」とだけ理解すればいいのですよ。
そして、「どうすれば、解決できるか」と、思考を一歩前へ進めるのです。
悩みを解決する手順
- まずは、悩みがあることを「ある」とだけ理解する
- 次に、悩みや苦しみの原因は、執着であることを理解する⇒反応しなければ楽になれる
- 悩みには解決策がある
順を追って理解していくことで、どんな悩みも確実に解決できるというのがブッダの合理的な考え方です。
次に考えることは「この悩みの正体(原因)は、いったいなんだろう」という点です。
苦しみの原因は「執着」にあるとよく語られます。
執着とは、手放せない心。どうしてもしがみついてしまう、こだわってしまう、怒りや、後悔や、欲望といった思いの数々です。
わたしたちは心の反応によって、執着を手放せなくなっているのです。
なので、反応を作り出している「真の理由」にまで、さかのぼって考えることが大切です。
そもそも、わたしたちに苦しみをもたらしているものは、快(よろこび)を求めてやまない心なのです。
『求める心』人間には7つの欲求があります。
- 生存欲(生きたい)
- 睡眠欲(眠りたい)
- 食欲(食べたい)
- 性欲(交わりたい)
- 怠惰欲(ラクをしたい)
- 感楽欲(音やビジュアルなど感覚の快楽を味わいたい)
- 承認欲(認められたい)
大切なのは「心とは、そういうものだ」と理解しておくことです。なくそうとしても、なくならないから抗うのではなく、心とは求めつづけるもの、それゆえに渇きつづけるものだと認めることです。
「心は求めつづけるもの」と理解すると、不思議な心境の変化が訪れることがあります。
つまり、「このままではいけない」「何かが足りない」という得体のしれない欠落感やあせり、心の渇きが収まって「人生はそういうもの」と、もっと大きな肯定が可能になるのです。
現代の私たちにとって厄介なのは、⑦承認欲です。認められたい(認めてほしい)という欲求です。これは人間だけにある欲求で、動物にはないのだそうです。
自分の中にある承認欲が満たされないと、周りの人間に不満をもち期待に応えてくれない人間ばかりだと不満や物足りなさを感じ憤慨したりします。
つまり、「他人の小さなことが目について、不満を感じてしまう」という悩みの正体は、もっと自分を認めてほしいという承認欲だったりするのです
それを踏まえて、ブッダの考え方の基本は、「まず、理解する」ことです。
「そうか、わたしには満たされていない承認欲があるのだ」
「この不満は、承認欲の不満なのだ」
このように、繰り返し、言葉で、客観的に理解するように努めます。すると反応が静まっていきます。
初めから、上手くできなくても大丈夫です。
たとえば、自転車に乗れるようになった時のことを思い出してください。バランスが取れなくて、何度も転び、それでも、あきらめずに練習して、どうにか乗れるようになってきたのではないでしょうか。
初めからできなくてもいいのです。できるようになるまで練習すればいいのです。「ある」ことを理解して、正しく対処できるようになればいいのです。
それまでの「心の渇きの正体」がわかるだけで、その不満状態から抜けだせてしまうのです。承認欲という「反応の原因」がわかれば、ずいぶんラクになります。
悩みの理由を正しく理解できると「悩み」は「解決できる問題」、希望に代わります。
心の状態を見る方法
- 言葉で確認する(ラベリング)
- 感覚を意識する
- 分類する
③の方法は、大きく3つの観念に分類することです。自分の心がどれに反応しているのかを意識するのです。
①貪欲(欲が働いている)
②怒り(怒りを感じている)
③妄想(これは妄想である)
これらは、貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)の三毒と呼ばれ、人間の三大煩悩とされています。
ブッダの考え方をまとめると「反応する前に、まず理解する」ということになります。
- 悩みの原因は心の反応である
- 心の反応の背景には求める心や、七つの欲求(特に承認欲求)がある。
- 心の状態をよく理解するには、①言葉で確認する②感覚を意識する③貪欲・怒り・妄想の三つに分類する。
こうした理解によって、苦しみを作り出しているムダな反応を解消していくのです。
正しく理解するとは、「自分はこう考える」という判断や解釈やものの見方を一切差し引いて「ある」ものを「ある」とだけ、ありのままに客観的に、主観抜きのニュートラルな目で物事を見すえることを意味しています。正しい理解には反応はありません。ただ見ているだけです。動揺しない、何も考えない、じっと見つめているだけです。そういう徹底したクリアな心で、自分を相手を世界を理解することを正しい理解と表現しています。正しい理解こそが苦しみを超える道である。
仏教=ブッダの教えとは「正しい理解によって、人間の苦悩から自由になる方法のこと」
第2章) 良し悪しを「判断」しない
人が悩んでしまう理由の一つは、「判断しすぎる心」にあります。
判断とは、「決めつけ」「思い込み」のことです。
- この仕事に意味があるとかないとか
- 人生は生きている値打ちがあるとかないとか
- どちらが優れているとか、劣っているとか
- どうせ自分なんてという自虐
- 「失敗した」「最悪」「ついてない」という失望や落胆
- 「うまくいかないのでは?」という不安や尻込み
- 「あの人はキライ、苦手」といった人物評
こうした判断は、不満、憂鬱、心配事など、たくさんの悩みを作り出します。
判断する心には、わかった気になれる気持ちよさと、自分は正しいと思える(承認欲を満たせる)快楽があるらです。
【判断したがる心の正体】
- 判断自体が気持ちいいこと
- 承認欲が満たせること
たとえば、誰かとケンカした後に、「あの人はここが間違っている」「彼があんなことをしたから、こうなったのだ」と振り返ることがありますね。友達に電話して事情を説明し、「それはおかしいよね、あなたは間違っていない」と、第三者の”お墨付きを得ようとすることもあります。あれは「やっぱり私が正しいのだ」と思いたいがための行動です。「承認欲を満たせる判断」を求めているのです。
人が苦しみを感じるとき、その心には必ず「執着」があります。
判断(決めつけ、思い込み)、一方的な期待・要求は執着の一種です。
たしかに、仕事や、生活や、将来の選択など、必要な判断はあります。決めることで、心の見通しが良くなることもあります。しかしどんな判断であれ、「執着」してしまうと、苦しみが生まれます。
なぜなら、現実は常に「無常」で、変わりゆくものだからです。
苦しみを手放す方法
人は苦しみつづけるより、苦しみから自由になることを人生の目標にすべきです。
正しい判断とは、いかなるものかといえば、「役に立つ」かという視点でモノを見ることが大切になってきます。
たとえば、仕事なら、「利益が上がる」「働きやすい環境につながる」「業務が円滑に進む」などと、いったことです。
「自分は正しい」という考えから離れてみる
「自分は正しい」という判断は、ブッダの理解にてらせば、むしろ「自分は正しい」と判断してしまった時点で、その判断は「間違ったもの」になってしまうのです。
人間というのは、一部しか見ていない。立っている場所も見ているものも、まったく違うにもかかわらず、すべてを理解した気になって「自分は正しい」と思い込んでいる、ということです。
たとえば、「これは、どう考えても、自分のほうが正しい」と、考えることもありますよね。しかし「どう考えても」というその「考え」は、自分のアタマで考えたことである以上、「どう考えても」自分の考えしか出てきません。自分で考えれば、自分の考えだけが出てくるのは、当たり前の話です。
しかし、だからといって、その考えが正しいということにはなりません。だって考えている前提、立場も体験も脳も、すべてが違うからです。
仏教が目指す「正しい理解」とは、逆説的な言い方になりますが、「正しいと判断しない」理解です。それよりも「真実であり、有益である」ことのほうが大事ではないか、と考えるのです。
お互いにわかり合い、貢献し合える関係を可能にするからです。
実践、ムダな判断から自由になる方法
①一つめは、シンプルに判断に気づくことです。
無意識のうちに「あの人、苦手」とか「今日はついてない」とか思いがよぎったときに、「あ、また判断している」と、まず、気づくことが大切です。
②「自分は自分」と考える
判断は「心のクセ」のようなもの。しかし、その余計な判断こそが苦しみを生んでいるので、判断を手放そうと肚(はら)を決めるのです。
ブッダの考え方のポイントは「世間にはこういう人もいるかもしれないが、わたしはこうしよう」と、他人と自分との間にきっちりと線を引いていることです。
「人は人。自分は自分」という明確な境界線を引くのです。
③いっそのこと「素直になる」
自分が一番ラクになれるため
自分を苦しめる、慢の原因は「自分は正しい」という思い込みです。
「私は慢という病気にかかっていました」と、素直に認めるのが一番。
「正しい自分」でいるより「素直な自分」でいるほうが、魅力的だと思いませんか。人の話をよく聞けること、ものわかりがよいこと、心を開いて話し合えること。そういう自分のほうが幸せになれると思うのですが、いかがでしょうか。
いちがいに、「判断をしない」といっても、すぐにはできません。否定的な判断をやめる練習をしなければなりません。
判断を止めれば、人生は流れ始める。
仏教による自分を励ます方法
- 方向性を見定める
- 今に集中する
- 妄想するのではなく、行動する
何をすべきか、何ができるかという、「この瞬間」だけを考えましょう。
人生に、あやまち、失敗はつきものです。ただ肝心なのは、そのとき「どう対応するか」なのです。落ち込まない。凹まない。自分を責めない。振り返らない。悲観しない。それより、今を見すえて、正しく理解して、”ここからできること”に専念するのです。もちろん、人に迷惑をかけたときは、事態を正しく理解して、「すみませんでした」と素直に謝りましょう。それも含めて、もう一度、新しくやり直すのです。
「とりあえず体験を積む」だけでよい
- やってみる
- 体験を積む
- ある程度の成果を出せるようになる
- 周囲が認めてくれるようになる
- 「こう動けば、ある程度の成果が出せる」と見通しがつくようになる
第3章) マイナスの感情で「損しない」
人は感情に悩まされます。
- ストレスがたまる
- 怒りで何も手につかなくなる
- 仕事で失敗して落ち込む
- 大事にしていたものをなくして悲しむ
- この先どうなるのだろうと不安になる
こうした心の動揺が「感情」です
この章では、感情を上手にコントロールする方法を、一緒に学びましょう。
まず悩みを「整理」してみる
- 不快な感情が生まれるのを防ぐ(感情の問題)
- 相手とどう関わるかを考える(関わりの問題)
この二つを分けて考えることが重要です。「感情に悩まされている」というのと、「相手とどう関わればいいのか」は、別の問題だからです。
「苦しみのない心」を人生の目的とする以上、「反応して心を乱されることは無意味である」と理解するのです。
仏教における勝利とは、相手に勝つことではありません。「相手に反応して心を失わない」ことを意味するのです。
言い争いの原因は常に「自分が正しい」という主張から起こります。けれど、脳が違うのだから「正しさ」も人それぞれ違うのだと理解することが大切です。相手の言い分を否定せず「あなたにとっては、それが正しいのですね」と、ただ理解するだけでいいのです。
厄介な人間関係に巻き込まれたときに、つい反応してしまいそうになったら、あえて大きく息を息を吸って、吐いて、覚悟を決め「相手をただ理解する」ように努めましょう。
困った相手と「どうかかわるか」
ブッダがさとす、相手との関わり方の原理原則
相手のことを「判断」しない
相手を判断することによって、自分は正しいと承認欲を満たし気持ちよくなっているだけです。判断することで苦しみが生まれるわけだから「しなくていい判断はしないでいい」ということになります。
過去は「忘れる」記憶を相手にしない
過去の出来事にいつまでも捉われて「怒り」を手放せないことがありますよね。
実は、過去をひきづっている状態というのは、記憶に反応している状態なんです。
たとえば、相手と言い争ったとします。最初の「怒り」の対象は「相手」かもしれません。でもその場を離れてもなお、相手のことがアタマから離れず、ムシャクシャ、モヤモヤ、イライラしているとしたら、その原因は「相手」ではありません。自分の中の「記憶」です。
いつまでも怒りが消えない本当の理由は、相手は関係なくなり、記憶に反応して新たな怒りを生んでいる状態になっていることです。
記憶は記憶として、思い出しても反応しない。
相手を「新しい人」と考える
世の中は移ろいゆくものなので、相手は常に新しい人ととらえましょう。
自分だって機嫌のよい日もあれば悪い日もあるわけです。相手だって同じだと理解すれば、新しい人として向き合うことができるでしょう。
「理解し合う」ことを目的とする「関わりのゴール」を見る
自分が感じていることや考えていることを伝えて、相手と理解し合うことをゴールに目指しましょう。もし相手が理解しようとしない、聞こうとしないのなら、それはもはや、関わる意味のない相手なのかもしれません。
執着こそが苦しみを生んでいるという理解に立ち
苦しめ合うためにかかわっているのではない。理解し合うために、お互いの幸せのために、関わっているのだ。
《大原則》快を大切にしていい
わたしたちの心の状態は、「快か不快」かの、二つの間を揺れ動きながら進んでいくのです。
快の反応を大事にするということは、欲求を否定することなく満たしてあげることです。
それが幸せへの近道になるのです。
第4章) 他人の目から「自由になる」
他人からどう見られているかが気になり、思ったように行動できないでいることはありませんか。なぜ、人は、他人の目を気にしてしまうのでしょうか?
他人の目が気になる心理の正体は、「承認欲」にあります。
「承認欲」とは、他人から認められたいという欲求です。(褒められたいとか、すごいと思われたいと思う心を言います。)
承認欲求は、誰にでもあります。認められたいと思う気持ちが発動して、欲求が顔を出してきます。その欲求に反応して、どう見られているのだろうと妄想してしまうわけです。
つまり、承認欲が作り出す妄想が、気になる理由の正体です。
この厄介な妄想を、対処する方法を一緒に学んでいきましょう。
まず初めに、妄想には際限がないことを理解し、妄想は妄想にすぎないと言い聞かせます。
何が思い浮かんでも反応しないという覚悟を決めてください。
なぜなら、確かめようのないことを取り上げても仕方がないからです。
妄想への向きあい方を、以下のように言い聞かせて取り合わないようにしていきましょう。
- 妄想は妄想にすぎない
- 妄想には際限もないし根拠もない
- 私はこれ以上妄想を追いかけない
ほかにも、他人の目が気になってしょうがないという心理には、特定の人間が影響していることが考えられます。「怒りっぽい」、「やたら神経質」、「落ち込みやすい」、「対人恐怖症」といった気質の奥に、結生した反応があったりします。
たとえば、母親の感情に振り回された子供時代を引きずっていたことが、イライラしたり、不安になったりする感情の根元あることに気づけた場合、一気に解消されることがあります。
ひとつ目に大切なことは、湧いてきた感情に気づいて反応しないことです。いやな感情がわいてきたら自分の中に怒りがあるのだなぁと、ただ、理解してあげればいいのです。
気づくことさえできれば、手放すことへのきっかけがつかめます。
ふたつ目は、体の感覚を意識することです。
感情に反応していた心を、体への感覚へきりかえてみましょう。
たとえば、外を歩いてみるとか、スポーツをしてみるとか、お風呂に入ってみるなど。
三つめは、反応の源を断ってみること。
悩みを長引かせている理由とキッパリと距離を置いてみることです。
関係をやり直すためにも、いったん、かかわりを断ってみましょう
承認欲を正しい努力で満たしていくために
- 認められたい気持ちをモチベーションにして、今の仕事、生活を改善していく。
- どんなときも「自分のモノゴトに集中する」
- 「自分で納得できることを指針(基準)とする
正しい努力とは、「外の世界」を忘れて、「自分のモノゴトに集中」して、そのプロセスに「自ら納得できる」ことです。
第5章) 正しく「競争する」
まずは、競争の正体を理解してみましょう。
生命はみな、欲を満たすことを求めています。欲を満たしてくれるものを手に入れることが、生きる目的として脳にインプットされています。
ここでもまた、「承認欲」を満たしたいという気持ちが、私たちを苦しめているということがわかります。けれど、欲は生きている限り続きます。脳に組み込まれているから無くすことはできないのです。
競争するという心理の底には、「何かを手に入れれば欲を満たせる」という原始的な欲求と、「手に入れたものだけでは満足できない」という貪欲(心の渇き)が、存在しているのです。
人間関係をまあるく治める「四つの心がけ」
ブッダは、人生の大きな心構えとして慈・悲・喜・捨の四つの心がけを持って生きることが大切だと説いています。
●慈【慈しみの心】
これは相手の幸せを願う心です。自分の都合や欲求を通すことではなく、純粋に「相手が幸せであるように」と願う心のことです。
●悲【悲の心】
これは、相手の苦しみ・悲しみをそのまま理解すること。相手の「悲」に共感することです。
●喜【喜の心】
これは、相手の喜び・楽しさをそのまま理解すること。相手の「喜」に共感することです。
●捨【捨の心】
これは、手放す心、捨て置く心、反応しない心です。「中立心」とも言います。たとえば、欲や怒りという反応に気づいて、ストップをかける心がけです。
人が幸せに生きる上で欠かせない永久の真理が、慈・悲・喜・捨の心がけの中にあります。もしこの四つを、働く動機、生きる目的に据えるなら「競争」という現実の中で、欲と怒りと妄想(三毒)とに駆られて生きてきた自分からちょっと自由になれることでしょう。そのとき、競争という現実の中にあって、競争に苦しまない生き方が可能になるのです。